怒りの意見

ノーベル賞について

2014年,2015年と続いて日本人がノーベル賞を受賞したとマスコミは大騒ぎである。加えて,受賞者の大村先生と梶田さん1は,ともに旧帝大出身ではなく,それぞれ山梨大と埼玉大のご出身である。後者の梶田さんは,私と年齢に差がないので入試制度の事情をよくわかっているつもりである。私より2歳以上年長の人は一期校と二期校を受験できた。一期校に旧帝大を含む難関校が軒を連ね,二期校は駅弁大学・地方大と呼ばれ馬鹿にされる対象となる。私もかくいう二期校出身である。梶田さんは,報道によると大学受験を京大で受け(素粒子実験を選択されたぐらいだから受験生の時京大理学部物理学科を目指されただろう),大学院で東大大学院に入学された。これはこれで立派である。他大学から大学院を受験するのはそれなりにハンデがある。しかも最難関の東大だから京大を含めた別の帝大からの受験者,私学の雄早稲田慶応その他,地方大の最優等生が受験し大学以上の倍率になったとしても不思議ではない。そんな状況で合格されたのだから相当な方であることはほぼ間違いない。ただ今回のノーベル賞受賞報道に関してはいちゃもんをつけたくなる。

1敬称を変えていることに理由があることは本文を見て頂ければ自ずと明らかになると思う。

科学における不正問題

神戸に拠点を置く理化学研究所発生・再生科学総合研究センターにおけるNature誌への投稿,華々しい報道とその後の後始末は お粗末としか言いようがない。私はこのホームページで書評のまねごととして10年前のSchön事件を扱った本の感想を書いた。日本ではどうも このATT Bell研におけるスキャンダルを人ごととして済まそうとしているように感じた。実際物理系では無視されている。今回の理研発生・再生科学総合研究セン ターにおける事案は,物理関係者にとっては 人ごとであるとしても我が国の科学への影響を考慮すると人ごととして無視していいとは思えない。特に,理化学研究所理事長・ノーベル化学賞受賞者・名古屋 大学名誉教 授・同特任教授工学博士 野依良治氏 と同理事・東京大学大学院教授・理学博士  川合眞紀氏という超大物を記者会見に登場させ,肝心の第一著者・小保方氏をトカゲのしっぽ 切りのように未熟なと表現したことには正直言って 驚くと言うより怒りを覚えた。巨億の研究資金をつぎ込んでこんなお粗末なことしかできないとは。我が国の理系研究者,特に,東京近郊以外に 立地する大学では駅弁大学とか地方大学とか言われて差別され研究費を殆ど配分されていない。このような環境の中,若手女性研究者ということで第一著者は マスコミに颯爽と登場し,若い女性の感性を想像させるような色彩の研究室をマスコミを通じて宣伝し,問題発覚と同時にお偉方はいち早く沈没する船から逃げ ようとしている。

理研の罪

今回のスキャンダルの一因に過剰な研究費争奪合戦や一部のスター研究者の過剰な功名心があるのではなかろうか。特に小保方さんはユニットリーダーと いう肩書きがあったとしても ポスドクを雇うような権限もあるようには見えない。そもそもパーマネントの研究者かどうかも理研のホームページからは読み取れない。下記に飛び火した早稲 田大学に対する 批判を書いた。しかし,理研には更に重い罪が有りなかでも共著者の一人で小保方さんの上司に当たる面々は断罪されてしかるべきである。しかし,組織を護り たい理研は それをできない。最も責任を負うべきは彼女の上司に当たる笹井氏ではないか。ご本人はこのスキャンダルの真っ最中にも立派な賞と賞金を獲得され,我関せず を貫き表舞台には登場しない。共著者として小保方さんの書いた論文を逐一チェックし,批評,書き換えを命じるのが上司として共著者として名を連ねる者の義 務である。 地方弱小大学に勤務する私は,直接博士後期課程の指導を出来る立場にないが,共同研究者として論文を書く場合それぐらいのことは当然している。小保方さん を未熟と いうなら絶対論文のチェックをしなければならない。笹井氏は一体何をやっていたのだ。そして今どこに雲隠れしているのか。下記に言及したBatloggの ように振る舞うことに専心するつもりか。

しかも2014年3月25日の報道では異なるマウスで実験していると報じられ,STAP細胞の存在そのものを否定されてもしょうがない事態に陥っ た。

その他の批判

Schön事件では,世界有数の研究機関AT&T Bell Laboratoryが事実上解体した。私がよく読む雑誌Physical Review LettersやPhysical Review Bに常連のようにこの 研究所の所属研究者の論文が掲載されていた。今ではその名を見ることも聞くこともない。Herr Dr. Schönの当時の上司Prof. Dr. Batloggは,スキャンダル発覚の真っ最中スイスのETH(Eidgenössische Technische Hochschule Zürich)**という大学の教授に 収まり何のおとがめもない。一応アメリカを代表する研究機関といえども一応私企業の研究所だからそれも通るかもしれない。しかし,今回の理研の場合,事実 上 国の研究機関ではないか。誰かが責任取らないと私の他にも納得しない声なき声がかならずある。例えば私。

このスキャンダルの別の要因としてNatureやScienceという二大雑誌への過信がある。かつて北澤宏一先生は,独立行政法人科学技術振興機 構理事長時代にこれらの雑誌への 投稿を戒める発言をされていた。少なくとも小保方さんと共著者はNatureではなく相応しい専門誌に掲載されることを考えるべ きであった。この点も 悪しき先例を無視している。

最後に,NatureはSchön事件に関与したことを反省したのか。小保方さんの論文を審査した レフリーはまじめにチェックしたのか。これらの雑誌を含めいくつかの雑誌は,あたかも特定の研究者の御用達になっている。科学の前では無名も有名も権威も 全ての研究者に 対して平等であるはずなのに。


早稲田大学について

小保方さんの件で,早稲田大学は当初出身大学として脚光を浴び私学の雄たるところを見せたかに思えた。指導教授常田聡氏までもがはしゃいで記者会見に登場 した。し かし事態は急 変し, 小保方さんの早稲田大学に提出した博士論文に無視できないほどの盗作疑惑が出てきた。本人も認めているようだから疑惑から盗作と断定しても よかろう。これ自身は しかし,小保方さんの未熟さ故で通ると考える。むしろはしゃいでいた指導教授が盗作を指摘できなかったことに大いなる問題をはらんでいる。同時に彼女の属 する先進理工学研究科*の教授陣は何をしていたかと言われるべきである。なぜならそれぞれの単位で論文博士,課程博士を問わず,提 出された博士論文を主査(指導教授)と副査の数名で審査し,その後承認する形で博士号の授与することが決定されるからである。このことから第一に非難され るべきは指導教授は,彼女を指導したのかということである。データの改変や文章の剽窃など指導教授が気付けば食い止められる。もっと言わせてもらうと早稲 田大学先進理工学部生命医科学科は,学部段階でデータの改変や剽窃を禁忌として強く指導してきたかどうかまで疑われるのである。今回の件で早稲田大学はそ の指導体制に大いなる疑惑を持たれたと知るべきであろう。私も担当する物理学実験で多くの受講生がウェブからの情報を安易にコピーアンドペーストすること に大変腹を立てつつも処罰をしてこなかった。今後は,このような行為を許さない。

倫理教育について

倫理について私がとやかく言える立場にはない。ただ2014年10月22日京都新聞朝刊土曜評論というコラムに日本分子生物学会理事長・東北大学大学院医 学研究科教授歯学博士大隅典子氏が 家庭や義務教育段階からネット上の情報をコピーすることについて悪いことだと教えるべしと主張されている。ご節ごもっともではあるが裏を返すと自分たち最 高研究機関の人間にはそんな ことまでさせるなというエリート意識を感じてしまう。私たちは,職業柄,義務教育の教師となる学生に対してコピーアンドペーストは厳禁と常々伝えている。しかし彼らは研究者にはならないしなれないのだから自ずと倫理観は後退してしまうだろう。小学校や中学校の先生にこのような教育を任せるのではなく世界の第一級の研究を遂行しそのための研究者を育成するための旧帝大でこそ徹底的に教え込むべきでないか。

わざとおどろおどろしく肩書きを書いた。そのごさすがに辞任されたが,すぐに別の名誉職に就任された。

物理学会誌に掲載された。証拠を出せと言われたら物理学会誌のバックナンバーから探し出します。

* 一般の方にはご興味ないことかもしれないが,大学院と大学の呼び名が多少変わる。例えば理学部,工学部ならそれぞれ理学研究科,工学研究科 となり,更に,理学部物理学科なら理学研究科物理学専攻などとなる。

**ドイツ語を文字通り訳すとHochschuleは高等学校となる。日本がかつてドイツのエリート育成制度を模倣して作っ た高等専門学校のことである。ドイツ語圏では はやくから実質上大学として博士号を出せる高等研究機関となって今日に至る。日本ではこれらを旧二期校として現在でも旧帝大や旧制高等学校より1−2ランク下の機関として扱っている。ETHはかつてAlbert Einsteinも学んだ名門である。その他ドイツのこれらに由来する大学はノーベル物理・化学賞など受賞者を数多く輩出しており我が国の旧帝大どころではない。

反論

佐和隆光氏のコラムに対する反論1

京都新聞朝刊に天眼というコラムがある。2012年5月5日は,佐和隆光氏(滋賀大学学長,経済学博士)の担当で あった。その中に私は全く受け入れられない主張をいくつか見いだした。私と言うより理系科学者,技術者が私の主張に賛同されることと信じる。佐和氏の文章 をそのまま載せたりすることは著作権の問題もあるし,なによりも面倒なので引用しながら反論を試みる。全文を参照されたい方は,京都新聞をご覧頂きたい。

前半の二段に渡って書かれている内容については何も言うつもりはない。多くの人もこの状況を見てきたはずである。私にとって到底受け入れられないのは三段 目第二段落以降である。以下のように書かれている。 画期的な新製品を生み出す源泉は「リベラルアーツ(人文学,数学,音楽)とヒューマニティ(人間愛)に裏打ちされたテクノロジー」だ,とアップル創 業者のスティーブ・ジョブスは語った。まさしくその通りだと私は思う。理工系の学生の多くが,高校で世界史はもとより,国語すら十分に学んでこず,文学作 品,哲学書,芸術とは無縁なまま,十代の後半を過ごす。ここでまず聞きたい。文系の人は,リベラルアーツや人間愛を学んできたのですね。ならば電 機メー カーに就職された文系の人は,ジョブスのような発想を当然されたのでしょうね。ジョブスの言うような製品を思いついたら,なぜ,我々技術者にその発想した 画期 的な製品の概念を伝えてくれなかったのですか?もっと直接的な言葉を使って言うと

  1. 理系出身の技術者は,製品のコンセプト確立からその技術的実現まで全て担当し,文系出身者は,営業活動するだけですか?
  2. 文系の学生が,ジョブスの言う教養を身につけていると言うのですか?
のように問いたい。我々理系の人間の方が,一般的な教養を身につけやすい。なぜなら佐和氏の言うようなことは自分でいくらでも実行可能だからだ。むしろ文 化系の学生が,数学を含めて理系の分野に対する興味も関心も なさ過ぎる。原因は理系の学問の性格そのもににある可能性がある。というのは理系諸分野(特に数学と物理)は,敷居が高い上に若い間でないと身につかな い。それ故,相互 に例えば数学の真理を究めかつ芸術・教養を高めあうことが出来ない,というより時間がない。技術者に芸術や文学の素養を求めると同時に,あるいはそれ以上 に文系の人に科学技術の一般教養を身につけてもらいたい。若い間にしか数学や物理の本は読めないのだ。技術系の人間は,若い間にしか出来ない勉強の上に文 学や芸術の素養を身につけないといけないなんて過剰な期待である。 失礼ながら佐和氏は,(ご経歴から判断して)製造メーカーに勤務されたご経験もないだろう。実際にメーカーの多くは,文系出身者に対してある程度意見を求 める機会を持っている。特許だって一緒に書けるのだ。だから,アップルのような製品が出ないのは技術者だけのせいのように言われるのは心外である。佐和氏 の言う人文知なき日本の技術者など言われる筋合いではない。ジョブスの発想を実現するために努力を怠らなかった技術者の姿すら佐和氏は見よ うとしない。

佐和氏が,私たち技術系の人間を困らせるためにコラムを書かれていないとは思う。しかし,科学技術を司る者への教育改革のみを提案されているように 受け取 れる。本当に有用な科学者技術者の出現を促すには一人でも多くの人が科学者技術者を目指すような教育をしない限り無理である。若者の理系離れはある意味必 然と言える。工学部の学生は講義に実験に忙しいのに対し,まるでアルバイトをするために大学に通っているような学生を擁する学部もある。そのような学部の 改革についても言及されるべきであるし,佐和氏は現実に滋賀大の学長なのだからその改革を指示できる立場にある。是非とも滋賀大学での取り組みを報告いた だきたい。

ご略歴は,ウィッ キペディアに記載されている。私は,世界(岩波書店)の記事や著書地球温暖化を防ぐ-20世紀型経済システムの転換(岩波新書)を 読んで尊敬していた。

佐和隆光氏のコラムに対する反論2

佐和氏は意外と私をいらつかせる文章を書かるようだ。意外とと書くのは,やはりかつて書かれた著書を読 んで尊敬していたからである。最近も京都新 聞天眼(2013年6月29日朝刊)で医学教育について書かれていた。曰く,医者になるのに数学や物理の高度な知識は要らない。それは絶対に違 う。医者になるような人は,一般人よりも遙かに記憶に優れ,素早い判断が求められる。要するに高等学校で習う数学や物理ごときで悩むような人は医師に不向 きと考える。たいていの場合医院を訪れる患者の症状は重篤ではなかろう。ただごく平凡な症状の積み重ねから実は重病であるケースもあるだろう。そんなとき 複数の症例から瞬時と言えずとも数回の問診,触診,検査から平凡に見える症例から重大な病気を探る必要がある。それには多くの症例を頭に入れておく必要が ある。たとえそれが殆どの場合不要であったとしても。私はそれが医師の矜持であると信じている。単に人が好き生物に興味がある程度で医師になられたら困る のは庶民である。佐和氏は人好き生物好きを重視されているのであろう。要するに万に一つのケースのために博覧強記は不要であるという経済学の論理に よる考えであろう。

大事には至らなかったが私にも苦い経験がある。耳鼻咽喉科で受診した際,無断で抗生物質を処方された。それを飲んだら直ちにひどい下痢と腸内異常発酵を発 症し本当に苦 しかった。そのことをその医師に訴えたら抗生物質にそんな副作用があるとは聞いたことがないと言われた。一般人でも知っているし,経験している副作用を聞 いた ことがないと堂々と言う人が医者であっていいのか。何も神であって欲しいと言うつもりはない。医師は,命に関わる仕事をされているから瞬時にあらゆる症例 と患者の状態から診断せねばならない。場合によっては知らなかったといういいわけをしてもらったらたまった物ではない。それゆえ高等学校程度の数学や物理 ごときで悪い点を取ってしまう人は淘汰されなければならないと考えるのである。

と,ここまで考えて私も気付いた。どうも経済学者は,偉い人であろうとなかろうと無駄を嫌うらしい。例えば佐和氏は第2外国語を大学生に勉 強させることに ついてどう思われるのであろう。多分無駄と言われるのだろう。一方,佐和氏は私たち人文知なき理系の人間に文学芸術などの教養を身につけろ と言いながら,自分を含めた文系の人はもとより医師志望者に対しても要らざる勉強(物理や数学)は不要と仰る。矛盾してませんか。理系の技術者は,人文科 学の教養がないからと決めつけて文学や芸術をやれと仰っているのに。どうせここに書い た批判は小人物の 戯言として無視されているのであろうが,私は私で所詮経済学というのは後付けの学問で有り,それを勉強する人は,評論家以外の何物でもない,という結論に 至った。

常に彼に文句を付けているのではない。例えば8月24日のご意見には至極ごもっともと頷いていた。

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