2021.03.17自分の行動指針を追求する

木戸 雅之さん

株式会社スタッフクリエイション 代表取締役

卒業学科
和歌山大学経済学部経済学科46期卒業生
取材者

取材者

中澤 怜士

和歌山大学教育学部学校教育教員養成課程72期生

━ 和歌山大学に入学されたきっかけは何ですか。

僕の学生当時は、自分の学力ランクで大学を決めるのが当たり前でした。大阪府立大学や和歌山大学が引っかかっていて、親から「下宿をするのはやめてくれ」と言われていたので、地元の国立なら迷惑もかけないので、和歌山大学に入学しました。大学自体を場所で決めたので、当時、学部は教育と経済しかなかったのですが、どちらも受けて経済学部に受かったという感じです(笑)。

━ 大学生活はどのように過ごされましたか。学生時代に力を入れて取り組んだことも踏まえて教えてください。

バスケットボール(以下バスケ)部に所属していました。基本的には部活しかしていませんでした(笑)。当時はバブルの最後の頃かバブルが弾けたぐらいで、まだその余韻のようなものがあって、みんなのんびりと楽しくやっていた時代でした。大学1年から就職に向けて準備するとかももちろんなかったですし、1年目はほとんど授業に出ずに、本当に部活だけしかしていなくて…そしたら単位が16~20単位ぐらいしか取れず、これはやばいなと…。これはえらいことになるぞって思って、2年生の一年間は授業に集中して出席しました。60〜70単位近く取れたのかな? 2年生を終えた頃にはほとんど卒業単位も目処が立っていたので、また3〜4年生はバスケばっかりやってという感じで、バスケには力を入れて取り組んでいました。つまり、2年生の1年間だけ集中的に勉強して、残りの3年は部活動とそのためのアルバイトをしているという、何の参考にもならない学生生活でした(笑)。

━ 就職活動はどのように進めていましたか。

就職活動については、銀行などに内定をもらっていたのですが、NTTの最終選考に残ったときに、内定をいただいていた他の企業全部に断りを入れたんですよ。「僕あのNTTに受けてるんで〜」って感じで(笑)。それで最終選考を受けたら落ちてしまって…。ここまで割と順調にいっていたのに失敗したので、その時は落ち込んじゃって…でもそれを機に自分のことを見返しました。すると、大学受験の時もそうでしたが、別に何がやりたいとか仕事内容がどうとかは全く考えず、この企業なんか人気があるしいいだろう、って受けていました。それで頭を打ったので、自分ってもともと何がしたかったのかを考えるようになりました。そこからまた内定を3社からいただきました。就職活動しながら自分ってどんな人間で、自分が本当にやりたいことってなんだろうってずっと自己分析しながら追求していると、自分でも全然知らない気づきがパッと出てきました。それが何かというと、“僕はミーハーだ”という結論でした。散々銀行とかNTTとかって言いましたけど、それって結局、経済学部だと主に金融が就職で有利ですし、みんなそこを目指していて先輩のOBの繋がりまであるので、それに乗っかっていただけだったんですよね。本当の自分はなんか目立ちたいとか、もっと単純だなと思って。もうそれに気付いた時は4年の夏とかだったんですけれど、今からマスコミとか目指したいって思っちゃったんですよね。でもいただいた内定先は教育関係とか製薬会社だったので、これはまずいと思い、全部お断りして、もう1年就職活動をすることにしました。親に相談したら大喧嘩になりましたけどね。そこからはマスコミを受けようと思っていたのですが、レンタルビデオ屋さんのTSUTAYAを運営しているカルチュア・コンビニエンス・クラブ株式会社(以下、CCC)の会社説明会に行ったときに、当時の社長さんがとてもプレゼンが上手で、「うわ、これはかっこいい!」となったんですね。しかもその説明会の演出が、当時全盛期の福山雅治さんの映像が流れて社長登場といった感じで、実際には芸能界とそんなに関係があるわけでもなかったのですが、あたかも関係あるかもという演出だったので、これが芸能系かぁとか思って、僕のミーハー魂がそこに結びつき、入社となりました。

━ 学生時代に取り組んでいたバスケットボールに携わる職に就こうとは思わなかったのですか。

もちろん僕自身、バスケが大好きでした。バスケはその当時はまだプロじゃなくて実業団ですけど、そんなレベルでもなかったです。やりたいけど、行かなかったとかじゃなくて、そういう考え自体が選択肢として全く思い付きもしませんでした。

取材の様子

━ そこからCCCをやめてリクルートに転職されると思うのですが、そのきっかけは何ですか。

もともとどこの会社に勤めるにしても、3年は頑張って自分に合っているのかを見極めたいと考えていて、ちょうど丸3年経って4年目の夏に転職しました。理由は主に2つで、1つ目は経済的な理由です。CCCに入社して最初の配属先の神戸市北区で一人暮らしをすることになったのですが、今の奥さんと出会って同棲をはじました。そして程なく子供ができ、もちろん結婚したのですが、そこから3年が経った時に、お給料がやっぱり厳しいなあという経済的な問題が出てきました。2つ目は、もともと営業希望で就職していたのですが、その道があまり見えませんでした。CCCにも営業職はあって、希望を出していたのですが、3年目になったときに店長をやれと、しかも関東へ転勤して欲しいって言われました。でも、家族もいるし、僕は営業希望って言っているのに、営業職への道も見えず、ちょっと厳しいなあって思って、転職活動を始めました。難しいかな、と思いながらも条件の良い有名どころの営業職の中途採用の求人を何社かエントリーしました。営業経験はなかったのですが、リクルートはトントンと決まっちゃいましたね。みなさん美容室を予約するときに「ホットペッパー」って使うと思うのですが、当時あれは、まだフリーペーパーで名前も違いました。その前身となる媒体をホットペッパーっていう名前に変えて売り出してくよっていうタイミングで、新規事業の営業で楽しそうだったのもあって、割と気軽なノリで転職できたという感じです。

━ 今は働き方改革が進む中で、リクルートと聞くと仕事効率をとても求められるイメージなのですが、当時はどうでしたか?

当時は、社会全体が長時間労働に疑問を持たず、勤務時間外も仕事の付き合い等も縛られることは当たり前のこととして受け入れられていた時代だったんですよね。リクルートに限らずどの企業も、皆、とてもハードに働いていました。でも、当時はそれが当たり前だと思っていたので、別に気にはなりませんでした。それに、残業しろと言われたことは一言もなくて、自分の担当クライアントがいて、その資料づくりなどやるべきことをやっていたら遅くなってくるので、みんな自主的に残っていたという方が正しいかもしれません。当時は時間をかけてとことんやってもよかったので、気力と体力は必要ですが、その方が楽と言えば楽でした。今の方が効率を求められるので大変かもしれないですね。昔のリクルートは独立志向のある人を採用していたので、入社した時にみんななんか夢を持っているんですよ。その夢のためにこの会社に何か得に来たというモチベーションの人の集まりなので、早く帰りたいとかもあまりないし、仕事の量はそこまで気になりませんでした。入社後の研修制度やノウハウはほとんどなくて、「とにかく自分で考えろ、見て学べ」というような会社で、周りの人たちがすごかったので刺激にはなりましたし、マネージャーとかになってくるといよいよ天才ばっかりで、僕もほんとに引っ張り上げてもらいました。人間は周りの人や環境で変わるということを、この会社で実感しました。

━ ここからはいよいよ大好きなバスケットボールに関わる仕事をされると思うのですが、その経緯を教えてください。

27歳当時リクルートにいたのですが、社会人経験も一通りしたところで、実際現実がわかってきて、自分と家族の生活なども踏まえて、自分自身がやりたいことをもう一回考え出していました。自分は独立志考で最終的に独立したいとか、自分で何かを成し遂げたいと、具体的ではないけどやっぱり思っている部分があり、実際何したいのかっていう答えは見つからなかったのですが、せめて好きなことをやろうと思い始めました。今はもう意見が違うけど、好きなことだったら、当時は玉砕してもいいと思っていました。「やりたいことをやってダメだった」と、「やりたくないことをずっとやり続けてダメだった」、同じダメなら、やりたいことを思い切ってやった方がいいと思っていました。でも、やりたいこと、自分の好きなことっていうのが分からなくて、1年2年も考えて、最終的にバスケショップの親父になりたいと思ったんです。でも、和歌山で学生時代からお世話になっていたバスケショップのおっちゃんに相談をすると、「儲からんぞ、やめとけ」って言われて、当時はそれを真に受けて、他にプレーヤーとして一流じゃなくてもバスケに携われる仕事を探し始めました。そうして色々調べていると、偶然リクルートの社内報で、他部署で「僕はいつか、プロバスケのリーグを作ろうと思っている」と語っている人の記事を見つけました。当時はもちろん何もなかったので、バスケのプロリーグを作ってやろうなんていう発想に驚いて、僕の中ではそこの気づきというか、こんな発想ありなのかと、1つのブレイクスルーになりました。その後とりあえずその人に会いに行ってきました。「僕バスケが好きなので話聞かせてください」ていくと、その人は本当に新しいリーグを作ろうとしていて、3年後ぐらいには実現するところまできていました。いざリーグができるってなったときに、リーグの職員になろうと思ったのですが、経済的な面で家族に迷惑はかけられないので、一度は諦めました。しかし、リーグができたことにより、球団が日本各地にでき、大阪でもチームの立ち上げが決まり、当時の新規事業部責任者(後の大阪エヴェッサの初代社長)の方が営業を探しているということで、スポンサー営業担当として就職させてもらうことになりました。その当時の年齢は30ジャストぐらいでした。

━ その後も、バスケットボールにまつわる様々なお仕事に携わったとお聞きしています。

その頃はリクルートの時より本当に大変でした。営業担当として、いいときもあれば悪いときもありましたね。立場を変え、フリーランスとして様々な仕事を受けていたときもありました。岩手での新球団立ち上げの話もいただきました。球団の立ち上げは当時、他にも手を挙げている地域が何箇所かあり、その中で競争だったのですが、最終的に岩手が(球団を作る審査に)通りました。その球団の社長をやらせてもらったこともありました。社長になって1年目の途中に東日本大震災が起きた時は本当に辛く大変でしたね。とにかく必死でした。

取材の様子

━ 現在和歌山で新たな会社を営まれていますが、そちらはどういった経緯、想いで起業されたのですか。

大阪で3連覇したときの監督等が当時、芦屋大学にいたんです。芦屋大学はスポーツで大学盛り上げていこうとしていて、それがご縁で、岩手の球団社長を辞めたあとは大学職員になりました。5年ぐらい職員をさせていただきました。それから今46歳になるのですが、僕が50になろうが60になろうが、いつか和歌山で球団を、みんなでやりたいと思っていて・・・トライアンズ(和歌山トライアンズ)もあったし、関西で球団がないのも和歌山だけでそれも悔しいので、いつかやりたいなって気持ちがまずあります。それから、和歌山で起業したいっていうのがあって、友達の助けも借りて今の人材の仕事を始めました。人材の仕事をしていると色々な地元の社長さんと繋がるのですが、絶対将来のバスケの時にも活きてくるだろうっていうのもあって、あともう一個は単純に僕生まれが和歌山なので、若い時は大都市に出て行きたいと思っていたのですが、やっぱり自分の生まれた街っていうのが好きで、何かここに貢献できることないかなぁというのがあって、今の仕事を始めました。

━ 今されているお仕事を具体的に教えてください。

基本的には人材紹介業です。Aさんという求職者と会社をつなげて、Aさんに就職してもらったら、企業にとってAさんがいい人材だったら戦力になるわけじゃないですか。その就職を繋いで、紹介料をいただく、という仕組みでビジネスをやっています。

取材の様子

━ キャリアを通して様々なことを経験されてきたと思いますが、働いてきた中で一番しんどかったこと、苦しかったことは何ですか。

生活費が苦しいことです。お金に困ると、そのストレスって能力の低下や家族や奥さんに当たってしまうことにより人間関係の不具合など、様々なものを引き起こしてしまいます。僕は学生時代に起業することを子どもにも勧めています。その理由は、経済的基盤が親のところにいてれば最低限で済むからです。元を正すと、経済的な不安を抱えながら物事をすると、そっちに気を取られたりします。僕は立ち上げを何度もやっているので、お金の不安がいかにダメージを与えるかって実感値があるので、それが苦しかったです。家族という守るものがある中で自分のやりたいこともやっているので、家族の生活だけは譲らないようにしてはいました。

━ 最後の質問になりますが、座右の銘や大事にしている言葉はありますか。

色々本を読むと、その度にその時その状況で様々な学びがあって座右の銘が変わるので、僕に座右の銘はないです。ただ、昔聞かれてよく答えていたのは、最初の新卒の時に入ったCCCの社長がプレゼンで言っていた言葉で、「夢しか実現しない」という言葉です。当時それが15年から20年ぐらい響いていました。これはすごく単純な意味で、自分が思い描いた人生とか、なりたい自分は、イメージしないとなれない。イメージしてもなれるかどうかはわからないけど、イメージが何もないなら、それは何者にもならない。だから自分が何者かになりたいとか、こういう夢を持っているというのがなければ、夢が実現することはない、夢を持った者だけがそれを実現するっていう意味です。この言葉にすごい感銘を受けました。周りのみんなに「球団を立ち上げる」と言って、何にもない時はバカにされましたし、「そんなのできるわけない」と言われて、でも「できるから」「できるから」って言い続けていたら本当にできました。その時みんな「ああほんとにできたんや」って言って、リクルートの上司にも「ほんまにできたんやなあ」「はい!だから辞めます!」「それは止められへんな」みたいな感じで辞めさせてもらったっていうのがあって、当時は「夢しか実現しない」っていう言葉をずっと持っていました。今はちょっと違うのですが、夢じゃなくても、裕福になることも実現するものもあると思うので、変化することや新しく研究することとか、行動指針みたいなところで追求するとかが大切だと思います。それから、新しいことを何でも興味を持って好奇心を持って生きていくというのは、大事にしていると思います。あ、これが絶対にいいとは言いませんけど。(笑)

取材の感想

取材の感想

自分も大好きなスポーツであるバスケットボールの業界最前線に立っていた方にインタビューできて本当にいい機会になりました。

今回インタビューさせていただいた木戸さんは、ご自身のキャリアの中で、常に自分がしたいことってなんだろうというのを追求し、その時々で家族をはじめいろいろなものを背負いながらも、自分の中でやりたいことに挑戦されてきました。そのため、成功された綺麗な話よりも、家族を持ちながら挑戦する難しさや資金繰りのことなど、やりたいことをするために必要なシビアな部分をたくさん答えてくださいました。また、それだけ現実的に考えないといけないことを教えてくれながらも、座右の銘として昔大事にされていたという「夢しか実現しない」という言葉を通して、将来なりたい自分や夢をイメージする大切さについても教えてくださいました。

僕も今後、たくさんのことに挑戦するつもりですが、そのためにも自分自身の行動指針を追求し、なりたい自分や夢をしっかりイメージしようと思いました。そして、イメージするだけでなく、そこに辿り着くために、現実的な部分からも目を背けず、積み上げていこうと思います。

最後となりますが、お忙しい中、貴重なお時間をありがとうございました。

※新型コロナウィルス感染症予防を徹底し、対面取材をさせていただきました。写真は一時的にマスクを外していますが、基本的に会話をする際は、マスクを着用し取材をさせていただきました。

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