川田裕美先輩
読売テレビ放送株式会社
編成局 アナウンス部 アナウンサー
2006年入社
<担当番組>
情報ライブミヤネ屋
和歌山大学 経済学部
経済学科
54期卒業
企業サイトURL:http://www.ytv.co.jp/
取材者
佐々木莉里
経済学部
市場環境学科
3年生
―川田さんは和歌山大学経済学部に54期生としてのご入学だと思いますが、入学されたきっかけは何だったのでしょうか。
まず家から通えたということですね。ごちゃごちゃしていなくて自然いっぱいなところにも惹かれて、志望しました。電車から見える広大な海の景色は毎日見ていても飽きなかったですね。
―学生時代、積極的に取り組まれたことは何ですか。
何かできることがないかと思っていたときに、足立先生がUWUというインターネットラジオを立ち上げるという話を聞き、そこに初めから参加させていただいたことが一番大きかったですね。
―UWUの活動で何か得たものはありましたか。
自分の足で取材活動をして得た情報が一番有益で、大切だということを学びましたね。たくさん本を読むことなどももちろん大切ですけれど、やっぱり生の声を聞いて、それをそのまま伝えるということが一番聞いている人の胸にも響くし、届きやすいと思いました。それは足立先生も大事だと常日頃からおっしゃっていて、それはUWUに入って活動したことで知ることができましたね。
―それはアナウンサーを志望されるきっかけとなったのでしょうか。
なりましたね。それまではアナウンサーになろうとも思っていませんでした。まずなり方も分からなかったですし、3年生のときでもどういった業種につこうか悩んでいる状態でした。そこからアナウンサーを目指そうと思ったのは、足立先生自身が当時から先生という職業のかたわら、テレビやラジオに出演されていて、その姿を見ているうちに自分が中学生のとき、アナウンサーという職業に憧れを抱いたことを思い出して、私のような普通の人でもなることができるのかなと思い、先生に相談しに行ったのがきっかけですね。
そのときに、何を根拠にしていらっしゃったのか未だに分からないんですけど、「絶対になれるよ。がんばりなよ。絶対目指しなよ。」と先生がすごく背中を押してくださったんですよ。あの先生の後押しがなければ、今この職業を目指していませんでした。ゼミの先輩でも狭き門を通っていかれた方もいらっしゃったので、とりあえず挑戦してみようと思いました。挑戦することはただですし、それがたとえだめだったとしても、やらないよりはやって後悔するほうがいいので、挑戦してみることへの勇気をゼミでもらいました。
―アナウンサーを目指すにあたって困難などありましたか。
難関は多かったですね。両親に納得してもらうのも大変でした。やっぱりそんな聞いたこともない職業に「何を言っているのか、あなたになれるわけがない」とだいぶ言われましたね。それまで何も訓練していなかったこと、周りにそのような職業についている知り合いがいなかったこととどんな仕事であるか分からなかったので、もっと普通のところを目指して欲しいとすごく言われました。でも先生はずっと応援してくださいましたね。おかげで私もやってみたいという気持ちがどんどん大きくなっていき、やっぱりこの職業を目指そうって思いました。
もちろんそこからもうまくいかなくて、何社か落ちたりもしました。そのたびに先生には相談に行きました。「まただめでした」というと、「おかしいな、どうしてだろう。川田さんが受からないはずがないのになあ」と一緒になって原因を考えてくださいましたね。途中で諦めて他の企業を受けようかと迷ったときもありましたが、親身になって考えてくれる人が身近にいたことで、私自身も真剣になって次はどう変えて、どう挑んでいこうかとしっかり考えることができました。だから、今の私があるのは和歌山大学、ゼミの存在がとても大きいです。
―学生時代に考えていらっしゃった就職観、あるいは職業観はどのように考えていらっしゃいましたか。
経済学部はいろんな職業につける学部でもあったので、最初は「入ってから考えよう」ぐらいの意識でしたね。ただ、ゼミに入ってから地域と連携したイベントに参加したり、学校を離れた行事に積極的に参加するようになって、コミュニケーションをとる機会が増えたことで、他学生からも含めてすごく刺激を受けました。そのときに単位をとることを目的にして学校へ行くのではなく、中学・高校とは違って、大学生だからこそ自分のやりたいこと、自分の職業に結びつくようなことができるのだから、もっと行動を起こしていこうと思いましたね。
―川田さんの日ごろからのご活躍はテレビで拝見していますが、今のお仕事のスケジュールを教えてください。
今でしたら、月曜日から金曜日までミヤネ屋をやっているので、14時から16時までの2時間生放送に備えて、朝から新聞をチェックしたり、他の報道番組をチェックしています。だいたい11時、12時ごろから打ち合わせを始めて、リハーサルを行います。生放送はできるだけ新しい情報をいかに早く伝えられるかが重要なので、前日から準備することはほとんどなく、直前勝負になります。急に予定していたニュース項目が変更になることもあります。だから打ち合わせはだいたい1時間ぐらいでぱっと終わります。そのあと本番という形になりますね。取材を受けるときはその放送後になりますね。
すまたんの日でしたら、朝の3時に出社します。朝番組はスポーツも芸能もしっかりやりますし、すべての情報が盛り込まれているので、朝は一般紙より私が芸能を担当していることもかねて、スポーツ紙をメインに目を通します。朝の番組はリハーサルをしないので、3時30分ごろから打ち合わせを始めて、5時12分本番開始となります。放送が終われば、少し仮眠をとってミヤネ屋にいきます。
マヨブラジオは、ミヤネ屋のあとに収録しています。だいたい19時ごろからスタートしますね。
―前日夜遅くになって翌日の朝早くから出社ということもあると思いますが、大変ではないですか。
おもしろいですね。それもあってこの仕事を選んだということもあります。毎日刺激的で楽しいですよ。学生のときからどうやったら仕事が長く続くかとか、どうやったら毎日楽しく仕事ができるかということを考えていて、そこから徐々に絞っていく中にアナウンサーが含まれていました。日々変わるニュースを伝えられるということは、毎日こなすことも違うだろうし、同じ時間に出社したとしても準備は異なるだろうから毎日刺激的で楽しいだろうと考えていましたね。
―2006年に入社されて今年で6年目になると思いますが、今までさまざまな方とお会いされて印象に残っている方や出会い、転機、そこから学んだことはありますか。
一番最初についた番組が大阪ほんわかテレビだったのですが、間寛平さんや笑福亭仁鶴さんなど本当に大御所の方たちとご一緒させていただく機会をいただきました。そこで感じたのが、本当に頂点を極めた方々は私みたいな下っ端にもすごく丁寧に接してくださって、そういう人ほど本当に一言一言こちらが発することを聞き逃さないですし、そういう姿勢が最後まで残る人は、やはりスタッフを大切にされますね。そういう仕事の仕方は、すごく勉強になりましたね。
―現在ご出演されているミヤネ屋の宮根さん、すまたんの辛坊さんはどうですか。
宮根さんからも学びますね。まず切り口が見ている人の目線ですよね。また、宮根さん自身も分からないことは分からないとおっしゃいます。たとえディレクターから残り時間を指示されていたとしても、今ここで終わると絶対に視聴者の方は消化不良になってしまうだろうから、後でスタッフに謝っていらっしゃいますけど、とことん分かるまで追求されますから、そこにはすごいなと思いますね。
辛坊さんもまた天才ですね。頭の回転が速いので、どのような聞き方をしてもすべて答えてくださいますし、1つの単語を見れば1人で何分も話していられると思います。でもそれはゆくゆく話しを聞いていると、辛坊さんもかなり自分の足でさまざまな場所に取材に行ってらっしゃいますね。やはり自分の足で稼いだ情報はいつまでも色あせずに使えるのだなと思います。頭の柔らかさ、情報量の多さは右にでるものはいないと感じています。
―6年間でさまざまなお仕事をされてきたと思いますが、年ごとに変化はありましたか。
そうですね。1年目2年目は、結構体を張ったような体験ものが多くて、特にほんわかテレビなどは他のリポーターと一緒にいくわけではなく、完全に1人で行ってましたね。もともとロケ志望だったのですが、インタビューの相手も一般の方であることが多かったので、話を聞きだすことがすごく難しかったですね。相手が俳優さんであれば、テレビのことを理解してくださっているので、インタビューという場に慣れていらっしゃいます。でもそうじゃない一般の方は急に質問されてもなかなか答えられないですよね。だからどうやって最初にほぐして入ろうかは悩みましたね。それこそ子どもの場合はどうするかとか、高齢者の方ならどうするかとか、取り上げる方でどういう切り口で入ればよいかということは、最初の1年目2年目で鍛えてもらいましたね。
2年目3年目ではウキキ先生も担当させていただきました。あれはニュースとはまた違った、演技でしたね。そういえば入社試験のときにカメラテストがあって、そのときに泣いてください、笑ってくださいというテストがありましたね。当時はなぜそのようなことをするのか疑問に思っていたのですが、今考えれば演技するような仕事もあるから、そこにつなげるためだったのだと思いますね。
3年目4年目になると、スタジオの仕事をつけてもらえるようになりましたね。そのころからマヨブラジオを始めたのですが、そうなると今度は共演者の方とどうやっていくかというところがすごく重要になりましたね。それこそブラマヨのお2人とでしたら、やっぱり2人の空気がありますので、それをまず壊さないことが第一ですし、でも実際は3人で座っているわけですから、自分は全く話さないというわけにはいきませんよね。そうすると、なぜ私はここにいるのかという自分のいる意味ということにすごく悩みましたね。それは進行はもちろんですが、2人が話しやすいような質問をしてみるだとか、2人の間だけで分かっていることも視聴者の方は分からないようなことや疑問に思うようなことがあれば、聞いてみるだとか、そういう間合いを読む、空気感を読むということは、やはりスタジオで徐々に分かっていくことだろうなと感じましたね。それは今でもなかなか難しく、人によって全然違うので、課題だと思います。
ミヤネ屋になってからは、結構報道色も強いことから、視聴者の方の年齢層も考慮しなければいけませんし、マヨブラで言って許されることもミヤネ屋でしたら許されないことがありますね。もちろんその逆もあります。だから、ミヤネ屋でしたら自分の母親世代のような主婦の方がたくさん見てくださっていたり、家族で見てくださっている番組でもありますので、いかに自分の生活レベルで考えるかとか同じ目線で立って考えるかというところを大事にしないといけないと思います。みんなが知りたい難しいニュースなどもどうすればきちんと伝わるかということを考えるようになったので、一般紙を読む読み方も少し変わったように感じますね。あと、全国ネットということもまた違います。新聞でテレビ欄から1枚めくったところには、事件などが載っていますよね。それは大阪版でしたら大阪のことだけですけれど、全国となるとそれだけではなくなりますよね。もっと広い視野で物事を見なければいけなくなりましたし、テレビのニュースであっても、大阪・関西のことだけではなく、全国的に今何が気になっているかというふうに違う目線を身につけることになりましたね。これはこれでまた新しい課題ができたなと感じています。
―24時間テレビはどうですか。
あれもやはり特別ですね。ずっと見ていた番組でもありますので、あれを担当させていただけたのは、まず嬉しかったです。あの2日間を楽しみにしてくださっている方は多くて、会場に来てくださる方々もよくお声をかけていただきますね。視聴者の方の声を直接聞ける数少ない機会だと思います。また、一度私の地元の泉大津市にある障害者施設に行かせていただいたこともあったのですが、そこにいらっしゃるみなさんはすごく24時間テレビを楽しみにしてくださっていましたね。一番好きな番組を聞くと、24時間テレビと答えてくださりました。1年に1回のときを楽しみにしてくださっていると感じると、やはりあの2日間は気合が入りますね。
―最初がロケ志望であったのはなぜですか。
自分がまず現場に行って体感することが大事だろうと思っていたからですね。それはまさに和歌山大学で学んだことで、自分の足で取材に行きたいと思っていました。今ではロケに行く回数も減って、原稿で伝えるということが増えましたが、1年目2年目の最初の時期での経験は今でも一番大事であったと思います。
―上司の方の自分からこの番組を担当したいなどの希望は聞いてもらえるのですか。
自分の希望が100パーセントすべてとおるわけではないですけれど、うちの上司は結構聞いてくれますね。アナウンス部員全員に対して、どういうことがやってみたいなどと話す機会を作っていただけるので、そのときにこういうふうにしたいというと、番組側と相談してくれたりしますね。
―企業として求める人物像とはどのようなものだと思われますか。
まず一生懸命やれることですよね。自分ひとりでここまできたわけではないということはすごく痛感するので、ちゃんとまわりの人も大切にできて一生懸命頑張れるっていう簡単なことですけど、それは大事だと思います。私も入ったときは、いろいろ知識が足りないっていう不安はありましたが、それは入ってからも少しずつ培えるものなので、まずは今持っている精一杯を全面に出してきている人が素敵だなと思います。
―それをアピールすることが大切ということですか。
でもそういうものはにじみ出ますよね。私はまだ6年目ですけど、新入社員の人たちを見ているとそれは感じるので、採用するもっと上の方たちは、すぐそういうのは分かるんだろうなというふうには思いますよね。あまり口でぺらぺら言うよりは、にじみ出てくるものが絶対あると思うので、自分を信じてしっかり頑張れば出てくるように思います。
―企業としての人物像に加えて経済産業省が提唱している社会人基礎力の中で重要な力をあえて選ばれるとしたらどれだと思われますか。
あえて選ぶなら、アクションの3つじゃないですかね。和大の今の学生さん向けに言うと、自分で自分の幅を決めてしまうよりは、まず行動してみることが大事かなと思います。挑戦してみることで自分の可能性をもっと大きくできるような気はします。学生はまだまだ未完成な状態ですよね。だからこのアクションは大事かなと思いますね。
―アナウンサーの立場としてならどれになりますか。
社会に入るとやっぱりチームですよね。今もずっとそうですけど、本当にまわりに助けられているので、自分ひとりでできるなんていう勘違いは絶対にしてはいけないということはずっと思っています。本当にまわりの人がいてくれるからこそ自分が仕事できているということはすごく思いますね。だからチームが大事だと思います。
―おすすめされる書籍はありますか。
高校生のときに読んだものですけど、高橋歩さんという方が作者の「アドベンチャーライフ」という本ですね。その方は、自分は本当に何もないまっさらなところから本を出したいと思って出版社を作ってみたり、出版社を作るためのお金が全然ないときは自分の友達とかに頼み込んで協力してもらったり、動くことで全部が一つ一つ大きくなっていって、自分の好きなことを仕事にされた方なのですが、この本はそのことを自伝という感じで書かれているものですね。大人が本当に好きなことをやれば仕事になるということが書いてて、ああ仕事ってそういうふうにも考えられるのだと思いましたね。それまで仕事というものは、自分が社会に出てすごく辛く苦しんで、それを乗り越えてやっとお金をもらえると思っていました。でもすべてがそうではなくて、楽しいことを仕事にして、お金をもらうこともできるということをこの本で学びました。でもそれは、やっぱりみんなそうしたいわけですから結果的に門が狭くなってしまうのだと思います。その門をくぐることは難しいかもしれませんが、でも少なからず可能性はゼロじゃない、ということをこの本から学びましたね。せっかく人生一回だから楽しまないと損じゃないかという感じのことをすごく分かりやすく書いてありました。あと、頭がシンプルに整理されている人ほど、パワフルに行動できるとも書いてありました。だから頭でこの先どうなるのだろうとか考えているより、まずまっさらになっている人ほど次に前に動きだせる、じゃあ動きだしてから考えればいいじゃないかということです。それを大学のときも覚えていて、だからたぶんまわりにも反対されましたけど、道はどっちにどう向くか分からないからと思って、今この仕事を選べたのだと思うと、すごく影響が大きかった本だと思います。
―当時はアナウンサー一本で就職活動されていたのですか。
そうですね、結局一本にしましたね。みんなが何十社とエントリーして、多い人とかは100とかエントリーしますよね。そういう友達が回りにたくさんいたので不安にはなりましたけど、私は結局6社しか受けなかったですね。でも6社しか受けないからこそ、その一回一回、全身全霊をかけて望むので、終わったあと本当にへろへろになっていましたけど、毎回これが最後だって思いながらやっていたので、何か鬼気迫るものをもって挑んでいました。採用するほうからすればちょっと怖かったかもしれないですね。でも自分の性格を考えてもたくさんのことを一気に器用にできるタイプではなかったので、それだったら一本集中型でいこうと思ってやりました。ダメだったらどうなっていたんでしょうね。ちょっとそれは今考えても怖いですね。落ちたときはだいぶ落ち込んで、他のところを受けるにも次で終わりかもしれないって毎回毎回思いながらでしたよ。でもいくら狭いっていわれている業種でも何千人に一人とか何万人に一人だとしても、必ず一人は通るのだからやってみる価値はあるように思います。何回挑戦してもやり直しがきくというのは、大学生のいいところだと思いますし、それも足立先生から学んだことですね。先生も一回新聞記者をやっていて、それから先生になっていらっしゃいますけど、特に20代のうちは何回でもやり直しきくよとおっしゃっていましたね。それを聞いて少し気持ちも楽になって、もし私がアナウンサーだめだとしても次があるかもしれないと思って、挑戦してみる価値はあるなあと思いました。なんでもやってみたもの勝ちみたいな気がします。
―情報発信をする立場として注意していることはありますか。
目の前には見ている人がいないので、どういう人が見ているかということは、最初すごく想像するのが難しかったです。でもやっぱり仕事をしていくうちに、当たり前のことですけど、おばあちゃんが見ていたらゆっくり話さないといけないとか、小さい子が見ていたら分かり易く言わないといけないとかには気をつけていますね。また、差別用語になってしまうこともたくさんあって、それについては入社してからもそういう表現の本はたくさん読みましたし、本当に自分たちの放送で傷つく人たちが出てはいけないというところは常に一番考えているところではあります。いくらおもしろくてもそれで気分を害する人がいたらそれはいい番組ではないですし、もちろん万人に受けいれてもらうことは、難しいことではありますが、たとえばゲストの学者さんから難しい言葉が出てきたとしたら、それを分かり易く言い換えるとかはするようにしています。あと決め付けないことですね。病気の話しとかだと、こういうことをするとこういう病気になりますなどのように断定してはいけないですし、これを食べたらこれが直りますとも絶対言えないから、そういうこともあるとか、そういう可能性があるという言い方にするように、どういう人が見ているかということを想像することが大事かなと思いますね。
―今はどういうジャンルの番組をしているのが楽しいですか。
今でしたら、これまでやったことがなかったニュースが楽しいですね。自分が今まで踏み込んでなかった世界なので、特に政治のこととかは一夜漬けでは全然分からないことですし、今の民主党がどうやってできあがったのかなんて本当に前に前にさかのぼらないといけないので、そういう分からないことは、うちの解説員に聞いたりとか宮根さんもよくご存知なので宮根さんに聞いたりとかまわりの人にいろいろ教えてもらいながら、今勉強しています。
―後輩にエールを含めてアドバイスをお願いします。
大学生のときっていうのは、すごく楽しい時期でもあり、大事な時期でもありますよね。でも必ず自分の前には何らかの可能性が無限に広がってるので、とにかく家にいるのではなくて、いろんなところに出て行って、それは日本国内でもいいし、世界中でもいいと思います。自分でいろんなところに出かけて、いろんなものをたくさん見て、感じてほしいです。そうするとどんどん新しい発想も生まれてくるはずなので、とにかく小さくまとまらないでほしいですね。やりたいことはなんとでもなりえます。みんなが協力してくれるし、絶対学生のみなさんが頼めばまわりの大人は協力してくれるので、うまくいかなかったらどうしようとかマイナスのことは全部省いて、完全にプラス思考で大学生活を謳歌してもらいたいなあと思います。
<取材の感想>
偉大な先輩から行動第一ということを学びました。考え込む前にとりあえず行動することは、勇気がいることかもしれませんが、大学生だからこそできることでもあると思いました。どんなに小さな経験だとしても学ぶことはその倍以上となることもあります。何がこれからの人生に関わってくるか分かりません。それを得ることができるかどうかは自分の意識次第だと感じました。就職活動間近ですでに遅いかと思っていましたが、今からでも学ぶことはあると思いました。就活のために経験を積むわけではなく、社会人としてこれからの人生を過ごすために経験を積むのだということを学びました。
取材をするまではうまくインタビューできるか不安でありましたが、終始優しく笑顔で答えてくださいました。このような機会を得られたことを嬉しく思います。学生という肩書きに時には甘えて、人生の先輩に助けを求めることで、よいアドバイスをもらうことができると思いました。忙しい中で1時間もない短い時間での取材でしたが、学んだことはそれ以上のものとなりました。
取材日:2011年10月27日(木)
時間:16:30〜17:30
場所:読売テレビ放送株式会社 本社
記事編集,取材同行・写真撮影:佐々木莉里(3年),安田菜穂美(4年)